「舞台裏」で公演を支えるスタッフたちの「技術」をお伝えする本コーナー。今回はヤマハ株式会社のオルガン技術者で、20年以上にわたり県民ホールのオルガン公演に関わった八木田淳さんに、調律作業を見学させていただくとともに、後日に仕事の内容やオルガンへの想いを、お話しいただきました。
聞き手・文 : 猪上杉子 写真 : 大野隆介(*を除く)
11月のとある土曜日の朝。オルガン技術者、八木田淳さんの姿は神奈川県民ホール小ホールにあった。この日は午後から県民ホールオルガニスト、中田恵子さんのリサイタルが開催される。天候は晴れ、気温は17℃。八木田さんはアシスタントの黒岩早苗さんとパイプオルガンの前に座り、ホールの室温を測る温度計とにらめっこしていた。温度計が22℃になったところで、「では始めましょう」と八木田さんの声がかかった。
黒岩さんをオルガン鍵盤前の椅子に残し、八木田さんはオルガンの裏側に回りこんで姿が見えなくなった。八木田さんの合図に合わせて、黒岩さんが鍵盤を一音ずつ鳴らしていく。「もう一回」「はい、次」と声をかけ合っている。何かを叩いているような音が聞こえてくる。濁りやうねりを感じる響きが均一の音色になり、高い金属音が混じって聞こえていた音がキンキンしなくなる。
一つのストップレバー(音色を変える仕組み。以後ストップと表記)で音階を全部鳴らして整えると、次のストップへと移る。なかなかに根気のいる作業だ。
ここでちょっとした事件が持ち上がる。ある鍵盤を押したら押しっぱなしで元にもどらないと黒岩さんが訴えた。「手前に引っ張りながら押し込んでみて」と八木田さんがアドバイスすると即座に解決した。
二つめのストップのチェックと調整を終えた八木田さんがオルガンの表側に帰ってきた。今調律したストップの音を一つひとつ確認しているようだ。足鍵盤も使いだす。
また八木田さんは裏に回った。二人で三つめのストップの音色を点検している。
こうして2時間近くの調律作業が終わった。本番まであと2時間だ。このあとの中田さんのリハーサルに立ち会って、演奏を聴いて最終調整をする予定とのこと。本番のコンサートに向けての気が抜けない時間が続く。

―オルガン調律の様子を見学させていただきましたが、二人がかりの作業で、一音一音チェックしてかなり時間をかけていらっしゃいましたね。まずは室温が安定するまで待機していらしたのが印象的でした。これはどのような理由があるのですか?
ピアノの調律とは全然違いますから驚かれたのではないですか? 表側に見えているパイプは一部で、裏側に林立しているパイプを調整するので、鍵盤を弾く人がもう一人必要なんです。二人のコンビネーションも大切ですね。もう黒岩さんとは二十数年来、息を合わせて作業しています。

室温が安定するまで待っていたのは、パイプオルガンのパイプを鳴らす仕組みと関係しています。パイプオルガンはパイプといういわば「笛」を鳴らす楽器であるため、管楽器と同様に、温度が上がるとピッチ(音の高さ)が上がり、下がるとピッチも下がる、という特性があります。つまり、設置してある部屋の温度が変わると、調律が変わってしまうのです。
あの日は急に冷え込んだ日で、ホール内の室温が下がっていたので、空調機によって室温が本番と同じになるのを待っていました。裏話ですが、調律をすませ、リハーサルを終えたあとになって、ホールの温度が1℃上がってしまったことがありました。お客さんが着席するとさらに室温が上がる可能性があったので、再調整をしました。1℃の差が許容できるぎりぎりの数値です。ですから温度はいつも気にしています。

―オルガンの調律の方法やご苦労、また使う道具を教えてください。
パイプオルガンの保守管理には段階があります。一番大がかりなものはオーバーホールで、オルガンを設置してから20年から25年後を目安に行います。このオルガンは1974年に設置されましたから50歳を越え、前回のオーバーホールは20年ほど前の2002年に実施しました。その時はオルガンの製作をしたクライス社の技師たち3人とともに、すみずみまで調整、調律を行いました。この楽器についてとても学ぶことが多かったです。
保守点検は年に2回行っています。日常的な全体的な調整、調律作業を行います。そして、コンサートやリサイタルごとの直前にリード管調律をします。こういう3段階のチェックをして、常にオルガンの状態を最良のものに保つのです。
このオルガンは2024本のパイプをもつ中規模のオルガンで、そのパイプは、発音の仕方で大きく2種類に分かれます。一つは「フルー管」といってリコーダーとそっくりな構造です。このオルガンでは一番手前の表側に立っている金属製のパイプがそれです。
もう一つは「リード管」といって、パイプの下部にリードという仕組みがつけられていて、リードの振動によって生じた唸りのような音をパイプに共鳴させることで音楽的な音を響かせます。一番似ているのはクラリネットの構造です。このリード管はピッチ・音色がぶれやすいので、コンサート前の調律ではこれを重点的に調整します。このオルガンにはリード管が230本ほどあります。裏側にあるそれらをていねいに調律すると1時間10分ほどかかりますね。
先日のコンサートでは、リード管調律を終えてリハーサルを聴いていたら、明らかにずれているフルー管が3本ありました。それを本番前のわずかな時間で再調整しました。ただリハーサル後に再調整することを望まないオルガニストもいるので、再調整するかどうかはオルガニストの希望を優先します。
調律にはいろいろな道具を使いますが、手づくりの道具や別の用途のものを転用して使ったりと工夫しているんですよ。ほこりを払うのには、料理用の刷毛を使っています。専門の道具であるチューニングコーンやチューニングナイフは、それぞれフルー管やリード管の調律に使います。パイプに風を通す弁を押さえているばねを外す時に使う道具は、ちょうどいいものがなかったので自分で手づくりしました。


オルガンは一つひとつの楽器がそれぞれまったく違ううえに、繊細な工芸品のような楽器です。慣れている楽器に対しては調律の方法論ができているのですが、初めての楽器の場合はどういう方法で調整したらいいか、手探りで苦労することもありますね。
―今回は調律の時に一度、鍵盤が戻らなくなったようでしたが、こういうトラブルはよく起きるものなのですか?
元々ほとんどトラブルのない安定しているオルガンですが、偶発的に問題が起きることはありますので、それはそのつど対処しています。今回は、ある鍵盤が押し込まれたままになって戻らなくなってしまうという現象が起きました。でも、こういったことが起きた時には、鍵盤のある部分をちょっと刺激するとすぐに動きが回復することをすでに把握していました。長年つき合っていると、オルガンのクセや突発的なトラブルにどう向き合うかがわかってきます。
―このオルガンと長くつき合ってきたなかで、一番大変だったできごとはなんでしょうか?
5年くらい前のできごとですが、「ふいご」(風を送る装置)に亀裂を発見してしまいました。応急処置をしてクリスマスコンサートを迎えたことが、最大のピンチでした。手持ちのものに加えて、自分で設計して急ごしらえでつくった部品を取りつけて延命を施したのですが、小さな亀裂から広がって致命的な損傷が起きてしまわないかと心配ではらはらしました。応急処置でなんとかしのぎながらしばらく使って、やっと全面的に修理をしました。ふいごは消耗するので、20年か30年に1回張り替えるものです。前回のオーバーホールから20年以上経過しているものの、ふいごを除けば大きな損傷はなかったのは幸いですし、よくがんばって動いてくれているなと愛おしく思います。

―このオルガンの特徴やクセはどんなものですか?
2024本ものパイプが比較的コンパクトなケースの中に密集して立っているため、やや調律に難しさがあります。そして大きな空間に設置されたオルガンよりも、こういう小さなホールで至近距離で演奏を聴くオルガンは、こまめに調律しないとなりません。
また、単独のパイプで鳴っている時にはきれいに響きが合っていても、複数のパイプを同時に鳴らした際に、接近した互いのパイプ同士が共鳴を起こし、調律が不安定になる現象が起きやすいというクセがあります。そういう予想もしないことが起こり得ることは意識して調律しています。通常のやり方でうまくいかない場合は、コツをつかんで工夫しています。リード管のリードは、チューニングワイヤーと呼ばれる一種のピンで押さえているので、そのピンを調節するのです。リード管はその構造から調律した直後に音程がずれてしまうこともあるので、リハーサルを聴いていてずれに気づいた時はリハーサルの合間にその音だけ修正することもあります。

―八木田さんにとって、このオルガンの好きなところや個性はどんなところですか?
これまで数多くのオルガニストの演奏を聴いてきましたが、強い主張のある楽器ではないけれども、それぞれの演奏にきちんと応えようとする楽器だという印象を抱いています。各々の演奏者がもっている音楽性──フランス音楽に造詣が深い人、古いドイツ音楽が得意な人、チェンバロもよく弾く繊細なタッチの得意な人──そういう人たちの熱意に応えようという気持ちを感じるんです。「それぞれの演奏者が力を発揮できるように寄り添おうとする気持ちをもった、誠実な人柄の楽器」だと思います。日本の公立ホールのなかで一番最初に設置されたオルガンなので、私たちは、愛情をこめて「公一(こういち)」というニックネームで呼んでるんですよ。
「公一」はストップ数は30と多くはありませんが、よく考えられた音色がそろっています。きれいな音色が数多くあります。とりわけ私が好きなのは、「ホルツトラヴェルソ」「ホルツオクターブ(足鍵盤)」「プレヌム(ストップの組み合わせ)」の3つです。単独でもきれいな音ですが、これらを組み合わせるとまたとてもきれいです。

―ところで、2024年11月16日の公演本番のバッハは美しい響きでしたね。
本当に美しかったですね。うれしかったです。「有終の美」(※2)を飾ってくれたなと思いました。

※1
音を震わせる効果をつける、オルガンの演奏補助装置
※1
2025年4月から県民ホールは施設老朽化のため休館した
神奈川県民ホールのパイプオルガンについて
製作ヨハネス・クライス社(ドイツ/ボン)
Johannes Klais Orgelbau(Bonn)
設置1974年9月
ストップ数30
パイプ数2024本

オルガン技術者
八木田 淳[やぎた・じゅん]
ヤマハ株式会社のオルガン技術者として1991年に入社。全国のパイプオルガンの保守管理・調律を手がけている。1998年頃から、県民ホールのオルガンの整音・調律を担当しており、この楽器の隅々までを知り尽くしている。