公演の舞台裏 ―ピアノ調律師編
河内克彦

「舞台裏」で公演を支えるスタッフたちの「技術」をお伝えする本コーナー。今回は、音楽堂や県民ホールで長年にわたり調律師として何百もの公演に関わった河内克彦さんに、仕事の内容や意義をお話しいただきました。

聞き手・文 : 猪上杉子 写真 : 大野隆介

―まずはピアノ調律という仕事の内容を教えてください。

みなさんは調律というと、狂いが出たりずれたりしたドレミファソラシドの音階の各音の音程を正しいものに戻したり整えたりすることと思っているでしょうか?

調律師の仕事には、大きく分けて「調律」「整調」「整音」という3つの作業があります。その一つめの「調律」は音程・音階を合わせる作業です。チューニングピンを操作して88鍵の音律※1を合わせます。音の高さをピッチと呼びますが、中央のラの音を442ヘルツなどと定めて音階をつくり全体を調律していきます。ただし、ピッチは一緒に演奏される楽器の特性や演奏者の好みによって指定が異なりますので、コンサートごとに変更しています。例えば弦楽器は高いピッチの方がより良い演奏効果が得られることから、445ヘルツなどということもありました。逆に声楽の入るアンサンブルでは440ヘルツと低く設定したりします。それでも短時間でのピッチの変更にはピアノの状態を不安定にするリスクもありますので、現在ではほとんどのホールで442ヘルツを標準ピッチとしています。

また、ピアノでは一つの鍵盤に3本の弦が張ってあります。一つの音を鳴らすために同時に3本の弦が鳴っているのです。この3本の弦は同じ音の高さに調律するのが基本なのですが、ほんの少しの調律の違いで微妙に音のイントネーションが変わります。これも調律のおもしろいところと言えます。

二つめの「整調」は、鍵盤、アクション、ペダルの調整です。ほとんどの楽器は演奏者が直接指や口で楽器を奏でますが、ピアノはそうはいきません。ピアニストは鍵盤とペダルしか触れることができません。鍵盤を弾くことにより、アクションの複雑な動きを通じてハンマーが弦を叩く仕組みです。ピアニストが鍵盤を操作する微妙な動きすべてがハンマーの動きに敏感に伝わるように、たくさんの箇所を調整していきます。

三つめの「整音」は音量や音質、音色を整える作業です。これはホール音響、演奏形態、温湿度、ピアノを置く位置、演奏者の感性などたくさんの複雑な条件を考慮しながら行う、音を聴く力と感性が必要なとても難しい作業です。弦を叩くハンマーのフェルトの硬度を、針やサンドペーパーを使って調整します。

※1

音律とは、1オクターブの音の高さの相対的な関係を決める方法のことで、現代では「平均律」が主に用いられる。

調律中の様子
調律で使うハンマー

—調律という作業の複雑さと奥深さに驚きました。ピアニストにとって調律師はどんな存在なのでしょう?

ピアニストは公演に自分の楽器を持ち歩けないため、コンサートホールに着くまでどんなピアノを弾くのか不安でいっぱいです。初めてお会いするピアニストにも安心して公演に臨んでいただけるように、より良い状態のピアノを用意して迎えるのが第一の仕事です。

そしてさらには、前述のような細かい作業をしながらピアニストの希望に応え、演奏をサポートしていきます。

客席でリハーサルを聴いて、「もうちょっと鍵盤のタッチを深くした方が良いかな?」「ピアニッシモをもう少し響くようにした方が弾きやすそうかな?」というようなことを感じなければなりません。リハーサル後、本番までの時間に手直しをする際には、そのようなイメージをもってピアニストの要望を伺い、本番に向けて仕上げていきます。

また、ピアニストは自身が弾いている音が客席でどんなふうに響いているかを知ることができません。ですから、時にはピアニストの耳の代わりになって、アドバイスをしたりすることもあります。

ピアノの響きはステージ上のピアノを置く位置によっても大きく変わります。音を聴きながら判断し、5cm単位でそれぞれの状況に合った位置にセッティングすることも重要な仕事です。

—鍵盤のタッチを整えるためには具体的にどのような調整をするのですか?

様々な調整箇所があるのですが、例えば鍵盤の動く深さを調整するために、鍵盤の下に入っている厚さの違う紙製のパンチングを抜いたり足したりします。一番薄い紙は0.1mmですが、ピアニストはそのわずかなタッチの差を感じとって自分の音をつくっていきます。

鍵盤の深さを調整する紙製のパンチング

—それだけの作業を公演当日の限られた時間内に行うのですね。公演当日のピアノ調律師はどのようなスケジュールなのですか?

ソロリサイタルの夜公演の場合──9時から15時まで調律、15時から17時までリハーサルを聴く、17時から開演直前まで整音の仕上げ、19時から21時までコンサート本番中は舞台袖で待機する、22時にピアノを片付けて退館、というのが最大に時間を割いてもらえる場合のスケジュールになります。

しかし、オーケストラと共演する協奏曲の昼公演ともなれば、楽器搬入、舞台や照明のセッティング、団員さんたちの音出しなどが一斉に始まります。ピアノ調律に割り当てられる時間も限られ、喧騒の中での作業なので、また別の経験とスキルが要求されます。

―公演本番の休憩中に作業をしている調律師さんを見かけることもありますよね。これまでに本番中にアクシデントが起きたことはありますか?

本番中は必ず舞台袖で演奏を聴きながら待機しています。弾いているうちに温湿度の変化などで音の高さが変わってくることもありますので。休憩の間の再調律はそうした万一の変化のためのチェックです。それ以上のことが起こるとそれは大事故です。

演奏中に弦が切れることも何回か経験しました。2000人もの聴衆の前で弦を張り替えなくてはならないので、若い頃は緊張して手が震えました。長くかかっても5分以内で手早く、また、できるだけスマートな所作で張り替えるのはとても緊張する作業です。

―一人前の調律師になるための訓練はどのように行うのですか?

私はたくさんのすばらしい先輩たちに恵まれました。数多くの仕事現場に連れて行ってもらい、多くの経験ができたことはかけがえのない財産です。先輩が何に気をつけて、どんなふうに音をつくるのか、それに対してピアニストはどのように反応するのか。それを見聞きする現場が一番の学びの場です。リハーサルを先輩と客席で聴いていると、「ほら、ここはちょっとアクションのスプリングが強かったからこういう音になっている」「これはちょっと直してあげなくては」という具合です。そういう学びの集積です。勉強が進めば進むほど、調律の難しさや奥の深さが分かってきます。ここまでできれば一人前などということはありません。

学びの場と言えば、私はここ音楽堂を自分の愛する母校だと思っています。

音楽堂は1954年の開館当時から2000年頃まで、舞台スタッフは神奈川県職員の専門職の方が担当していました。昭和の日本のクラシック音楽創成期の頃から長年にわたって、このホールの音楽を支え続けてきた方たちです。ステージマナー、照明や音響との連携のとり方、そのほか演奏者への細かい気配りなど、マナーやメンタルな部分を含めて、調律の技術的な勉強とは別の、ステージスタッフとしての基礎を、彼ら音楽堂の舞台のプロに時に厳しく時に優しくご指導いただきました。アーティストに良い演奏をしてもらうために私たちが備えなくてはならないとても大切なことです。

―音楽堂の思い出をもう少しお聞きしたいです。

音楽堂は日本でも有数のすばらしい音響を誇るホールです。音を聴く力を勉強するのにこれほど恵まれた環境はありません。音楽堂は床も壁も天井もすべて木でできていますから、ホール自体が楽器として鳴るので、舞台袖でも客席にいるのと変わらないくらい実際の音が細かい響きまでよく聴こえます。この点も恵まれた環境で育てていただいたと感謝しています。

音楽堂での音楽家との楽しい思い出はあげれば枚挙にいとまがありません。たくさんのすばらしい演奏家の演奏は今でも耳に残っています。調律師の先輩や舞台スタッフの方々以外に、感謝すべき一番の先生は、ここで関わりをもったたくさんの演奏家です。失敗したこと、叱られたことだってたくさんあります(笑)。

「ここ音楽堂は、たくさんの舞台スタッフの方々からピアノ調律師としての僕を育ててもらった母校です」と話す河内さん

―調律師にとって一番大切な素質とはなんでしょうか?

「音をつくる」ためには、「音を聴く力」が必要です。演奏家が何を求めて何を苦労しているのかを理解できなければなりません。若い頃に先輩から言われたのは「とにかくたくさんの演奏を聴きなさい」。たとえCDやレコードであっても有名な録音は、ピアノに限らずオーケストラもジャズも全ジャンルです。「これを聴きなさい」「これとこれを比較しなさい」って。すごくお金がかかりました(笑)。聴く力を養うには、音楽だけに限るものではありません。美術館に行って絵画を観たり、焼き物を観たり。趣味でカメラを始めたのも、アングルや構図の切り取り方、現像やプリントなどの作業を通してつくりあげる感性を培うのに役に立つように思えたからでした。 

―調律師とはどんなプロフェッショナルでしょうか?

調律師はコンサートのための舞台スタッフの一員。より良いピアノを用意してピアニストを迎えます。舞台監督、照明や音響のスタッフたちと協力し合って、ピアニストが最高の演奏ができるようにお手伝いする職人です。

調律師はアーティストではありません。芸術的に何か特別なことをしているわけではありません。絵画の世界にたとえると、調律師とはアーティストである画家のために絵の具を用意する職人です。常に同じ純粋な12色の絵の具を用意できるように。それぞれの画家に合わせた絵の具をつくることなんてありません。36色もいりません。真っ黒とか真っ赤とか純粋な12色を用意しておく仕事だと思います。でも、その真っ赤や真っ黒をつくるのが一番難しいんですよね。

ピアノ調律技能士

河内 克彦[かわち・かつひこ]


有限会社ポリムニア代表。1987年より調律師として神奈川県内のコンサートホールや音楽大学などのピアノとパイプオルガンの保守管理を担当。これまで行った音楽堂と県民ホールでのコンサート調律は数百回に及ぶ。

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